ベイドリームに入ってから

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僕は、ついに日本一と聞いたベイドリームに入ることにした。

しかし、ずっと何か様子がおかしいと感じていた。ベイドリームの選手やスタッフが少ないし、何かわからないが、日本一に思えない雰囲気だった。

後にその違和感がわかることになるが、当時はサッカーをやりたい一心で横浜ベイドリームに入部した。

そして、当時、電動車椅子サッカー界隈では最強と言われていたクイッキーのP200を購入した。簡易型電動車椅子と比べようがないほどに、スピードや反応が速かった。

さらに、プログラムで前進後進のスピードや旋回スピード、加速、ブレーキの強さなど自分に合った設定にできることが嬉しかった。

始めはドリブルすら上手くできなかったが、練習を重ねて行くうちに徐々にボールをコントロールできるようになっていった。そして、電動車椅子サッカーにどんどんとのめり込んだ。

そんなある日、チームの雰囲気についてメンバーに相談したところ、メンバーから今に至った経緯を聞かされた。それにより、違和感の正体が判明した。確かにベイドリームは日本一で何度も全国優勝したチームだった。

だが、今は日本一になったメンバーはもういない。

段々とサッカーを楽しみたい選手と、勝ちにこだわる選手との間で意見の相違が出てきて、勝ちにこだわる選手だけで新しいチームを作った。それが後の横浜クラッカーズだった。

僕はショックだったが、入ったばかりだったのでしょうがないなど思っていた。

そんな中、熊本で全国大会があり、ベイドリームは前回のディフェンディングチャンピオンだったので、飛行機で向かった。

ちょうど熊本で国体があり、町は大盛り上りでお祭り騒ぎだった。体育館の周りには、目移りするぐらいの露店がたくさん並んでいた。

いよいよ、初めての試合が始まった。緊張はなくワクワクしていた。

当時のルールは、車椅子のスピードが4.5キロと6キロの2種類あった。それぞれ2人ずつで6キロの選手は、頭に何らかの印を付けないといけなかった。今思うと変なルールだ。

僕は、6キロを担当していた。さらに、今とは違い直径50センチのボールをラグビーのように押してゴールに入れるというルールだ。

要するに、体重が重いチームが圧倒的に有利なスポーツだった。明らかに昔の方がコンタクトが激しく、コンタクトだけで言えば脳性マヒの僕にとっては楽しかった。

そして、1回戦の相手は強豪のビクトリーロード奈良。既にこちらには日本一の選手たちはいないので、もちろん1点も奪えず大差で完敗した。

僕は、初めての試合だったので、悔しい気持ちより楽しい気持ちの方が勝っていた。そんな熊本遠征だった。

執筆:加藤高明